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プラスチックの花

L.A.B

L'ARTISTA

AZZURRO BELLO

​始まりの物語

 

以前、このお店は
「サロン・ド・ピエール」
という名前でした。
1990年10月
母が女手一つで
立ち上げたお店です。
地域の方々に
愛されたお店でした。

それから、12年・・・。

2002年10月14日
L'ARTISTA
AZZURRO BELLO
は産声を上げました。

私は、2代目店主として
新たな名前で船出をしました。
それまで、私は
東京の山野愛子美容室
(銀座本店と東陽町店)
にて
勤務していました。

 

【母の鬱病発症】

母が、更年期障害から
鬱病を患い
帰省する事となりました。
理由は、母子家庭だった事。
そして
当時、二人の弟たちが
小学生と中学生だった事です。

帰省後は、家から近くの
美容室に就職しました。
それは、何かあったら
すぐに対応できるから。

その後、症状も落ち着きを見せ
幾つかの店舗で店長などを経験し

L'ARTISTA
AZZURRO BELLO

を立ち上げるに至りました。

 

【原点】


母は、 私が小さい頃
水戸で美容室を営んでいました。

お店に出入りしていた私には
「パーマの臭い」が母の臭い!

ですから、
「美容師になった!」
と言うより
「パーマ屋さんになった!」
感じでした。


家庭内のゴタゴタの後は、
吐血しながら
3つの仕事を掛け持ちし
お金を貯めて、借家暮らしから
女手一つで二度目のお店と
マイホームを立ち上げた母!

『このお店を継ぎたい!』

母の苦労を知っている
私としては、そう思いました。

学校から帰宅すると
いつも母のお店には
お客様と母の「笑い声」
が絶えませんでした。

そんな、お店が好きでした。

私にとって
母子家庭や持病などで
イジメにもあっていたから
唯一の癒しの場所でした。

お客様の笑顔と笑い声!
これが、とっても好きでした。

それは
夜な夜な一人になって見せる
疲れた顔の母が元気になる唯一の
ものだったから。

お客様に

「母を元気にしてくれてありがとう」

という気持ちでした。

 

【そして…未来へ】



そんなこんなで、お店を

2002年10月14日

引き継ぎました。

『みんなの笑顔の為に!』

この思いで営業しています。

お店のポリシーの中に
この様に表現しました。

『美容室は、
人生を輝かせる為の準備室』

有名な方の言葉ではありません。

私の言葉です。


様々なメニューを開発して
常に
最上級の薬剤と技法で
笑顔を創出してまいります。

ぜひ、お店でお会いしましょう。

ご来店を心より
お待ちし
ております。
つたない話にお付き合いくださり
ありがとうござました。

​白井義勝

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